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【SMAP】 爆笑問題・太田光、メリー喜多川氏をイジることは「タブー」と暴露

490 :名無しさん@恐縮です@\(^o^)/:2016/01/27(水) 16:31:55.80 ID:kc5eA0qJ0.net
【ナベプロ帝国と六本木野獣会】

かって、日本の芸能界を支配した一大帝国があった。ワタナベプロダクション。通称ナベプロ。
そのタレント供給原・育成機関として機能していたのが六本木野獣会である。

六本木野獣会(ろっぽんぎ やじゅうかい)とは、田辺靖雄を中心に構成されていたティーンエイジャーの遊び人グループ。
概要  1961年に結成。
本来の名は“野獣会”で、1950年代後半から1960年代前半(=昭和30年代)、当時の流行の最先端を行く六本木に集まっていた事から別名「六本木族」。
2つの名前がいつの間にか接合されこのように呼ばれるようになった。
メンバーには田辺の他に峰岸徹、中尾彬、大原麗子、小川知子、井上順、ムッシュかまやつ、福澤幸雄(レーサー)など。
またデザイナー志望の若者もおり、最大30人前後で構成されていた。富裕層の子女が多かった。
結成の同年、田辺が渡辺プロダクションに、峰岸が東宝にスカウトされた。また井上が1963年に、ザ・ジャガーズの前身だったバンド「野獣会オールスターズ」に参加、
2年後にザ・スパイダースに加入する。多くが、若手スターとなり、野獣会自体は数年で自然消滅した。

当時、六本木のカフェ・レオス、あるいは1960年に開店し文化サロン的存在になりつつあった飯倉のキャンティに集った。
キャンティーは当時ナベプロ食堂やナベプロレストランと称されるほど業界人で賑わっていた。
同時にキャンティーオーナーの川添梶子は当時のGS、タイガース、テンプターズ、スパイダースの衣装を一手に扱う日本初のスタイリスト兼コーディネーターであり、
ナベプロの衣装制作室を兼ねていた。そのファッションセンスは、後にユーミンこと松任谷由美を見出すことになる。

当時フジテレビのディレクターだったすぎやまこういちによれば、当時六本木で遊んでいた良家の若者たちを集めて組織したのは自分自身で、
1962年放送のバラエティー番組『森永スパーク・ショー』に出演させたという。
1963年に公開された映画『マタンゴ』に登場するキャバレー歌手は六本木野獣会のメンバーがモデル。
なお、加賀まりこがメンバーと誤解されることがあるが、本人は野獣会とは無関係だと否定し、「『野獣会』などは田舎者の集まり」としていた。
尚、当時加賀まりこの子分が現在の松坂慶子でウリ専をしていたという。自らは元野獣会と称している。

当時、ナベプロの片隅で、人気絶頂のGSを尻目に、川添に衣装を依頼する予算も無く、一人シコシコ、フォーリーブスという弱小グループの
衣装を手縫いする女性がいた。 メリー喜多川32歳の夏。後に女帝と呼ばれるBBAである。

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