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【サッカー】「ヴォルカ」から見た昇格と統合の物語 J2・J3漫遊記 鹿児島ユナイテッドFC後編

1 :YG防衛軍 ★@\(^o^)/:2016/10/05(水) 18:35:07.37 ID:CAP_USER9.net
再び、9月11日に行われたJ3第21節、鹿児島ユナイテッドFC対ガイナーレ鳥取のゲームを振り返ることにしたい。2?0で鹿児島が勝利したこの試合、ゴールを決めたのは永畑祐樹(前半42分)と赤尾公(後半3分)である。鹿児島の背番号8番と7番には、2つの共通点があった。すなわち、いずれも鹿児島の出身者であること。そして前所属が「ヴォルカ鹿児島」となっていることである。

 鹿児島のトップチームに所属している選手は現在29名。このうち地元の鹿児島出身は11名いる。また、鹿児島出身者ではないものの、統合前の2クラブ(ヴォルカとFC KAGOSHIMA=FCK)、そして地元の鹿屋体育大学や鹿児島実業高(鹿実)出身の選手が6名。合計17名、つまりトップチームの半分以上が「鹿児島ゆかりのある選手」ということになる。

 鹿児島の地元比率が高いことについて、クラブ代表である徳重剛自身が「意図的にそうしている」と語っている。無論、それはそれでクラブの方針としてはありだ。とはいえ、もともとクラブの成り立ちと予算規模を考えると、地元色が強くなるのは必然であったとも言える。九州リーグに所属していた、県内の2つのクラブが統合したのが2014年。その後、カテゴリーが上がっても、選手の入れ替えは最低限にとどまった。鳥取戦でゴールを決めた永畑と赤尾も、共に元Jリーガーとしてのキャリアを持ち、九州リーグとJFLを経験したのちに、再びJの舞台に戻ってきている。

 さて、本稿の前編でも触れたとおり、9月28日にJリーグは鹿児島に対して、J2ライセンスを交付しないことを発表。驚異的なスピード感でJ3まで駆け上がってきた鹿児島だが、今回はスタジアムの案件が足かせとなり、J2昇格の夢を絶たれることとなった。いくら鹿児島が「Jクラブになった」とはいえ、J3とJ2とではクラブとしての格も周囲の注目度も大きく異なる。加えて今季はJ3で上位争いをしていただけに、J2昇格は彼らにとってリアルな目標でもあった。それだけに、今回のライセンス不履行の決定は、クラブにとって大きなダメージとなったことは想像に難くない。

 先ほど私は、鹿児島が「驚異的なスピード感でJ3まで駆け上がってきた」と書いた。だが、彼らのJリーグへの希求というものは、実はFCKが設立される2010年以前からあったのである。その中心となったのが、のちにFCKと統合することになるヴォルカ鹿児島。鹿児島の前史はFCK側から語られることが多いが、本稿はあえてヴォルカ側からのアプローチを試みることにしたい。起点となるのは、今から20年前の1996年である。

 ヴォルカの前身は、1959年に創設された鹿児島サッカー教員団。73年にスタートした九州リーグのオリジナルメンバーであり、一度として県リーグに降格しなかった名門として知られている。この純然たるアマチュアクラブが、フランス語で火山を意味する「ヴォルカン」をクラブ名にアレンジして「ヴォルカ鹿児島」となったのは96年のこと。いきなりクラブ名がカタカナになったのは、言うまでもなく「将来Jリーグ入りを目指す」という宣言に他ならない。鹿児島の広報、久保尚子が当時のことを覚えていた。

「ちょうどその年(96年)の10月から、県のサッカー協会で働くようになったので、よく覚えています。私も知っている人が、選手としてポスターやチラシに載っていて、仲間内で盛り上がっていましたね(笑)。当時県協会はJFL昇格を目指すチームとして支援活動をスタートした年でした」

 96年といえば、アビスパ福岡が九州初のJクラブとなった年。これに呼応するように、それまで「特別活動地域」として九州3県を準ホームとしていた横浜フリューゲルスの鴨池での試合も激減していた。一方で、鹿実出身の城彰二や前園真聖も、Jリーグや日本代表で活躍している。「ならば鹿児島からもJクラブを」という機運が高まるのも自然の流れだったのかもしれない。そしてもうひとつ、この機運の追い風として期待されたのが、02年のワールドカップ(W杯)。実は鹿児島県も、開催地の立候補を検討していたという。初めて聞く話だったので、最初は半信半疑であった。だが県協会のサイトを見ると、確かに「平成2年1月 W杯サッカー鹿児島招致夕べの集い開催」という記述がある。

2 :YG防衛軍 ★@\(^o^)/:2016/10/05(水) 18:35:30.25 ID:CAP_USER9.net
平成2年といえば1990年。日韓共催が決まる6年前の話だから、おそらくアイデアレベルの話だったのだろう。とはいえ、鹿児島市中山(ちゅうざん)に3万人規模のスタジアムを作る話は実際にあったようだ(現在は県と市のスポーツセンターとなっていて、鹿児島もここをトレーニングで使用している)。この話が具体化していれば、「ヴォルカをJクラブに」という話が全県レベルで盛り上がっていただろう。しかし結局、W杯招致の話もスタジアム建設の話も立ち消えとなり、ヴォルカのJへの動きは徐々に停滞してゆく。のちにヴォルカの最後の代表となる湯脇健一郎(現・鹿児島運営部)は、こう回想する。

「確かにあの頃は『Jを目指すんだったら、ヴォルカしかない』という感じでした。でも、その後が順調に続いたかというとね……。一時期、前田浩二さんが監督兼選手で来た時は盛り上がりましたけど(03?04年)、それ以外はワクワク感がないまま時が過ぎていったというのが実際のところだと思います」

ヴォルカが九州リーグで足踏みを続けることになった原因は、プロ化を意識したクラブ運営ができる人材や組織に恵まれなかったことに尽きる。NPO法人や評議会が作られては、「鹿児島にJクラブを」とか「子供たちに夢を」といったスローガンを掲げるものの、実体も実行も伴わない。「上がる上がる詐欺」と揶揄(やゆ)する者もいたと聞く。

 長年、地域のクラブを取材していて感じるのだが、上を目指す動きが加速する時に不可欠となるのが「黒船」となり得るよそ者の存在。その役割を果たしたのが、FCKを立ち上げた徳重であった。もちろん、彼は鹿児島の人間ではあったが、長く東京にいたため地元のサッカー界とのしがらみはなく、鹿児島県人会連合会のネットワークも持っていた。加えてスポーツビジネスも学んでおり、若さと情熱にも溢れている。鹿児島のJのクラブの動きを活性化させるには、まさにうってつけの存在であった。

 徳重はFCKを立ち上げた当初から、ヴォルカとの統合を前提条件と考えていた。「鹿児島県の経済規模を考えたら、Jリーグを目指すクラブが2つもあるのは、どう考えても現実的ではありませんでした。それに、同じ県民なら力を合わせようという考えの方が、県内では多数派だったことも大きかったです」とその理由を語る。一方、ヴォルカの選手の中にも統合を前向きに考える選手は少なくなかったようだ。昨シーズンのチーム得点王、山田裕也もそのひとり。「練習環境が良くなるんだったら、早く一緒になればいいのにと思っていました。向こうは午前中に天然芝で練習していましたし」と、当時の心境を語る。

 度重なる交渉の末、ようやく両者の統合が合意に達したのが13年の夏。統合に向けた具体的な作業は、JFL昇格のための地域決勝(全国地域リーグ決勝大会)終了後ということに決まった。このシーズン、九州リーグ優勝を決めたのはヴォルカ(鹿児島教員団から名称変更して、18シーズン目での初優勝だった)。昨シーズン優勝のFCKは2位に終わったが、「補充枠」としてJFL昇格の登竜門に再び挑むこととなった。

 九州リーグから地域決勝に2チームが出場するのは09年以来のこと。鹿児島から2チームが出場するのは、37回続いた同大会で、初めてのことであった。1次ラウンドは、AグループのFCKが青森県の十和田会場、Bグループのヴォルカが兵庫県の五色会場。両者は、決勝ラウンドが行われる新潟県新発田(しばた)を目指し、この過酷な大会に挑むこととなった。

3 :YG防衛軍 ★@\(^o^)/:2016/10/05(水) 18:35:42.15 ID:CAP_USER9.net
地域決勝1次ラウンドは、2日目を終えた時点で、FCKが1勝1敗、ヴォルカは2勝。決勝ラウンドに進む条件は、グループの首位となるか、3グループで最も成績が良い2位(ワイルドカード)になることである。そして迎えた3日目。ヴォルカはFC大阪を2?0で下して、首尾よく首位通過を決めていた。一方、すでに1敗しているFCKがワイルドカードに滑り込むためには、FC大阪をしのぐ成績を収めなければならない。そのために必要なのは、4点差以上の勝利。しかし、前半45分を終えた時点でスコアは0?0であった(相手はFCコリア)。

 現在、鹿児島のアカデミーダイレクターとU?18監督を務める大久保毅、そしてGMの登尾顕徳は、この大会ではそれぞれFCKの監督、ヴォルカのコーチを務めていた(登尾は選手兼任で実質的な監督)。2人とも、この地域決勝での神がかった展開は、生涯忘れられない思い出と語る。

「選手たちには『これがFCKとして最後の試合になるかもしれないから、悔いのないように戦ってこい』と言って送り出しました。確かに厳しい状況でしたが、何かが起こりそうな雰囲気はありましたね。で、後半4分に先制してから、一気に4得点で4?0ですよ!」(大久保)

「ウチは1?0でも決勝ラウンドに行けたんです。もし後半の追加点がなかったら、FCKは5点差でFCコリアに勝たなければならなかった。その意味では、ウチが助け舟を出すことになったと言えますよね(笑)」(登尾)

 かくして、鹿児島の2クラブはそろって決勝ラウンドに進出。2日目に行われた最後の鹿児島ダービーは、4?0でヴォルカが圧勝した。しかし最終順位は、FCKがJFL昇格の条件を満たす3位となったのに対し、ヴォルカは4位。この結果、両者はFCKを主体とした「鹿児島ユナイテッドFC」として統合されることとなった。そして、96年から続いてきた「ヴォルカ」の名前は、この統合をもって消滅することとなったのである。

 統合に至るまでの間、両クラブの間ではさまざまな葛藤があったと聞く。それでも、統合が地域リーグ時代ではなく、JFL昇格が決まった直後だったのは、結果として正解であった。まず、2チームが地域決勝に出場したことで、JFL昇格の可能性は2倍に広がった。また、昇格と統合が同じタイミングになったことで、メディアの注目が集まり、スポンサーも集まりやすくなった。もっとも、統合や昇格が、ゴールではなく始まりにすぎないのも事実。代表の徳重自身、そのことは重々承知していて「Jクラブになる作業と、Jクラブとして持続していく作業は、まるで違いますね」と実感を込めて語っていた。

 クラブは昇格もすれば降格もする。クラブの底力が試されるのは、まさに降格のようなリスクに直面した時であろう。J3は今のところ降格はないが、J2ライセンスの不交付は、今の鹿児島にとって降格に匹敵するくらいショッキングな出来事であった。しかしながら、この一件で現場が意気消沈し、メディアのバリューが下がり、ファンやスポンサーが離れてしまうようでは、クラブの今後は危ういと言わざるを得ない。劇的な昇格と統合の物語から3年。鹿児島は今、真の意味で「持続してゆくクラブ」となるための正念場を迎えている。

http://sports.yahoo.co.jp/column/detail/201610030006-spnavi?p=2

4 :名無しさん@恐縮です@\(^o^)/:2016/10/05(水) 18:38:08.92 ID:gy0MRALr0.net
ユニとエンブレムはかっこいい

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