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【サッカー】1994年 現役セレソンの参戦<前編> シリーズ 証言でつづる「Jリーグ25周年」

1 :YG防衛軍 ★@\(^o^)/:2017/02/23(木) 21:27:30.23 ID:CAP_USER9.net
1994年(平成6年)は、米国でワールドカップ(W杯)があった年として、サッカーファンの間では記憶されている。前年のW杯アジア最終予選での「ドーハの悲劇」により、日本代表は目前でW杯初出場の夢を絶たれていたものの、それでもファンの落胆はさほど長く続くことはなかった。93年に開幕したJリーグは空前のブームを呼び、その熱気は翌94年も続いていたからだ。そしてブラジルの4度目の優勝でW杯が閉幕すると、世界トップレベルのフットボーラーたちが、相次いでJリーグのピッチに登場することとなった。

 ドイツ代表の守備の砦(とりで)、ギド・ブッフバルトが浦和レッズへ。ユーゴスラビアの至宝、ドラガン・ストイコビッチが名古屋グランパスエイトへ。そしてW杯優勝メンバーのひとり、レオナルドが鹿島アントラーズへ──。Jリーグ開幕時を彩ったスーパースターたち、たとえば鹿島のジーコや名古屋のガリー・リネカーなどは、確かに知名度と実績は抜群ではあったものの、残念ながらピークはすでに過ぎていた(ゆえに当時のJリーグは、海外から「年金リーグ」と揶揄(やゆ)されていた)。それが94年になると、ついこの間W杯に出場していたような選手たちが、プロ化したばかりの極東のリーグに参戦するようになったのである。

「レオ(ナルド)は練習でも、左足しか使わないんですよね。右でかわしているのに、また左に持ち直してプレーを続ける。技術があるから、そういうことができるんだなと感心しました。それとあの頃は、超一流の外国人選手と対戦するのも楽しみでした。名古屋のストイコビッチとか、1対1では絶対にボールが奪えないから、1人が当たりに行ってバランスが崩れたところで、もう1人が行くとかね。そういうレベルの高い相手と、毎試合のように対戦していたので、本当に楽しくて仕方がなかったです(笑)」

 現在は鹿島の監督で、現役時代はレオナルドとチームメートだった石井正忠は、懐かしそうに往時を語る。2016年のクラブW杯決勝では、レアル・マドリーと互角の勝負を繰り広げたことで一躍脚光を浴びることとなった名将も、当時は27歳のプロ3年目。実は石井は、大学時代には高校の体育教師を目指していた。しかし、教員採用試験の願書を出し忘れてしまったことから、その後の人生は思わぬ方向に転がり始める。

 当時、JSL(日本サッカーリーグ)2部だったNTT関東(現大宮アルディージャ)で2年プレー。同じ2部の住友金属から「プロ化するので一緒にやらないか?」と誘いを受けて移籍を決断する。住金は言うまでもなく、鹿島アントラーズの前身。のちにジーコがやって来ることも、国内最多のタイトルを獲得することも、そして自身が監督となってレアルとガチンコ勝負することも、当時は知るよしもなかった。

石井は鹿島のMFとして、94年と95年のJリーグでそれぞれ30試合に出場している。プレーヤーとして最も充実していたこの2シーズンは、Jリーグが世界中から一流の選手たちを集める一大市場となっていた時代と重なる。この時代にフォーカスする前に、時計の針を91年まで逆戻りさせることにしたい。当時の住金はJSL2部で、監督は鈴木満。後年、鹿島を常勝軍団に育て上げる伝説的な強化部長も、この時は34歳の青年監督であった。そこにいきなり、あのジーコが「現役選手」としてやって来る。以下、鈴木の回想。

「とんでもないことになったな、というのが正直な思いでしたが、すぐに『教えてもらおう』というスタンスに切り替えました。あれだけの実績と経験のある選手でしたし、自分よりも4つ年上ということもありましたから、そこの割り切りは難しくなかったです。ただし、毎日怒られましたね。練習スケジュールの組み方、休息のとり方、食事の内容。アラ探ししているんじゃないかと思うくらい、何度も何度も怒られて。辞めたいと思うことは、しょっちゅうでしたよ。プレッシャーで、朝の4時くらいに目が覚めるんですね。ああ、またグラウンドでジーコと顔を合わせるのか。嫌だなあと(苦笑)」

 当のジーコにしてみれば、「このチームを強くしたい」とか「プロフェッショナリズムを伝授したい」という使命感は間違いなくあったはずだ。しかし一方で、プロの環境が整っていない、選手やスタッフの意識もプロとは程遠い、しかも単身赴任で話し相手もいないとなれば、いら立ちを募らせるのも無理からぬ話だろう。そんな中、鈴木は「嫌だなあ」と思いながら、どこまでもジーコに食らいついていこうと腹をくくる。

2 :YG防衛軍 ★@\(^o^)/:2017/02/23(木) 21:28:07.96 ID:CAP_USER9.net
「当時の住金は2部で、このままではJリーグに入るのも難しい状況でした。また僕自身、1部と2部を行き来するような選手だったし、さしたる実績もなければ代表歴もない。そんな自分が、日本サッカーがプロ化する中で生き残っていくためには、誰にも負けない何かを吸収していくしかない。そこに“世界のジーコ”が来たわけです。この人からさまざまなことを吸収すれば、一流になれるかもしれない。そう思ったら、食らいつくしかないですよね」

 一方、当時の選手はジーコからどのような指導を受けていたのだろうか。石井は「とにかく基礎を徹底的に仕込まれました」と回想する。

「ジーコが強調していたのは『シンプルなプレーを正確に、判断を素早く』ということでした。僕は技術が低かったので、たとえばアウトサイドでミスすると『なぜインサイドで丁寧にパスしないんだ!』と、ものすごく怒られましたね。本当に小学生が教わるようなレベルのことを、何度も繰り返していました。(93年春の)イタリア遠征から少しずつ試合に出してもらえるようになって、キャプテンにも任命されましたけれど、あの時は自分のことで必死でしたね。とにかくレギュラーポジションを確保して、プロとしてJリーグの開幕を迎えたい。その一心でした」

鹿島のJリーグ参入にあたり、当時チェアマンだった川淵三郎が「99.9999%ない」としながらも、残り0.0001%の可能性として「屋根付きで1万5000人収容のサッカー専用スタジアム」という条件を出したところ、見事にこれをクリアした──。あまりにも有名な「鹿島伝説」の序章である。

 晴れて「オリジナル10」の一員となった鹿島であったが、それでも川淵は「お荷物にはなってくれるな。少なくともビリになるな」とヒヤヒヤしていたという。しかしフタを開けてみると、1stステージは鹿島が圧倒的な強さを見せつけて、見事に優勝。ジーコ率いるアントラーズと、人口5万人にも満たない鹿島町(当時)は、空前のJリーグブームも相まって一気に全国区の存在となる。しかし、当時アシスタントコーチだった鈴木にとり、Jリーグ元年の記憶はそれほど楽しいものではなかったという。

「当時の立場として、監督の征勝さん(宮本征勝=故人)とジーコとの板挟みでしたから、いろんな意味で神経がズタズタになりそうでした(苦笑)。それに加えて、お荷物にならずにJリーグで生き残っていかなければならなかったので、とにかく必死でした。ウチはヴェルディ(川崎)や(横浜)マリノス(いずれも当時)のように、実績もなければ伝統もない。やれることは全部、完璧にやらないと置いていかれる。ですからあの年(の1stステージで)優勝しても、選手は浮かれることも、調子に乗ることもなかったです。それは必死さと危機感もさることながら、『常に謙虚であれ』というジーコの教えも大きかったと思いますね」

そのジーコも、翌94年の1stステージをもって現役を引退することが決定。それを知ったキャプテンの石井は、「ジーコと一緒にプレーできる残された時間を、今まで以上に全力で戦おう」と心に決めたという。

「というのも、僕にとってジーコは大恩人でしたから。もともと守備的なポジションだった僕に、(ダイヤモンド型の)中盤の左での役割を与えてくれたのは彼です。『お前ならできる』と、僕の能力を引き出してくれました。(年齢的なこともあって)プロとしてのキャリアは長くはなかったですが、もしジーコと出会っていなかったら、プロとしてあの舞台に立つのも厳しかったのではないかと、今でも思っていますね」

 かくして、鹿島アントラーズの土台づくりに尽力したジーコは、惜しまれながらピッチを去っていった。しかしフロントは余韻に浸ることなく、すぐさま「次の一手」を打っている。この年、クラブの新社長に就任した鈴木昌(のちの2代目Jリーグチェアマン)は、「鹿島のブランドを確立させる」ことを次の目標に掲げ、それにふさわしい新外国人選手の獲得を命じた。ターゲットに選ばれたのはW杯優勝メンバー、レオナルドである。

http://sports.yahoo.co.jp/column/detail/201702210006-spnavi?p=2

3 :名無しさん@恐縮です@\(^o^)/:2017/02/23(木) 21:36:36.48 ID:1Lz5zu/A0.net
レオナルドのプレー映像見せられたアルシンドが「甘いねw」って鼻で笑ってたの覚えてる

4 :名無しさん@恐縮です@\(^o^)/:2017/02/23(木) 21:47:52.49 ID:TfbiW9D20.net
サンパイオ「ワタシノコトデスカ?」

5 :名無しさん@恐縮です@\(^o^)/:2017/02/23(木) 22:28:01.45 ID:Kf2PM8N+0.net
天にまします 我らの父よ 願わくばみなを
あがめさせたまえ みくにをきたらせたまえ
みこころの天になるごとく地にもなさせたまえ
我らの日用の糧を今日もあたえたまえ 我らを
試みにあわせず悪より救い出したまえ 我らに
罪を犯すものを我らが許すごとく我らの罪を
も許し給え 国と力と栄えとは限りなく汝のもの
なればなり アーメン
エクセルシオールカフェ赤羽東口店(
閉店後、同列系統サンメリー)に
天罰あらぬ事を
(全バージョン転載可)
創価学会の行っている非人道行為が
なくなりますように悔い改めよ創価学会
海外の政府の方 日本の闇を暴くのだ
日本では俗称 集団ストーカーなるものが
行われている
ドトールコーヒーは創価学会だ
倫理もなし タックスヘイブン 創価学会
不幸が起こって創価を信じると収まる 野蛮人のやるような行為 だれか英訳して海外掲示板に貼ってくれ
創価学会脱会方法 http://park5.wakwak.com/~soka/dakkai.htm
人間やめますか 創価学会やめますか
TBS 川田アナ自殺 ネットで調べてみな
創価学会 お前らは地獄に落ちろ
ドトールコーヒーが何も法的措置を
取らないのは事実だからです
赤羽は大松あきらのポスターで一杯

6 :名無しさん@恐縮です@\(^o^)/:2017/02/23(木) 22:30:03.76 ID:FzrVrVMJ0.net
サンパイオ、ジーニョ、エバイールはチートだった

7 :名無しさん@恐縮です@\(^o^)/:2017/02/23(木) 22:45:25.96 ID:hFnC50i30.net
ジュニーニョとか居たな

8 :名無しさん@恐縮です@\(^o^)/:2017/02/23(木) 22:46:09.51 ID:q3a6rv2HO.net
半袖短パンで出来るオカマスポーツ()笑wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww

9 :名無しさん@恐縮です@\(^o^)/:2017/02/23(木) 22:50:26.89 ID:FzrVrVMJ0.net
半袖短パンでできないスポーツってゴルフぐらいか?

10 :名無しさん@恐縮です@\(^o^)/:2017/02/23(木) 22:52:26.44 ID:hFnC50i30.net
>>8
タンクトップと半ズボンでやるバスケはどうなるんだよw

11 :名無しさん@恐縮です@\(^o^)/:2017/02/23(木) 22:55:12.60 ID:q6IgIsgI0.net
>>8
ベルトに贅肉が乗ってるよりはマシだな
唐揚げでも喰ってろ

12 :名無しさん@恐縮です@\(^o^)/:2017/02/23(木) 22:56:21.99 ID:+g6UTYtG0.net
むしろ革ベルト締めてできるチームスポーツの方がおかしい

13 :名無しさん@恐縮です@\(^o^)/:2017/02/23(木) 22:56:43.87 ID:Ch9iKG0m0.net
文章がわかりにくいなこの人

14 :名無しさん@恐縮です:2017/02/24(金) 00:13:52.47 ID:TKFNrYjvE
石井ちゃんが高校の体育教師だったら糞メンタルで学級崩壊してたかもな

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