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9条教牧師が「『日本死ね』は誰も傷つけない」とツイートし炎上 「表現の自由」などと長文で言い訳

1 : キン肉バスター(愛媛県)@\(^o^)/:2016/03/15(火) 23:31:10.50 ID:bnRWT32w0.net ?PLT(12000) ポイント特典

国家は抽象物であることについてーー天皇機関説についても考えた
保立道久

「保育園落ちた 日本死ね!!!」と題したブログ記事について、次のようにツイートしたところ、急に「何をいっているんだ」という意見が集中して驚いた。

   「日本」というのは実態ではなくて抽象物なので、それを中傷することは人を傷つけない。
    抽象物を中傷されたということで傷つくのは傷ついた側が間違いなのだと思う。
    保育園という実態が背後にあり、怒る愛がみえるのが、このフレーズの天才的なところ 。

 いうまでもなく、国家とは抽象物である。国家が人格性をもつかどうかというのは、国家論にとって本質的な問題である。
国家は人格性をもたない、法人格と具体人格は違うという見解をベースにして美濃部達吉の「天皇機関説」があるのはよく知られた話しである。

 日本が抽象物であるとは、日本国民が国籍をもつという形で形成された存在であることである。

 国家の構成員が国家を自己自身の構成物(哲学用語でいえば抽象物)として扱う権利をもつのは当然である。
国家は構成された公共圏である。国家の主権者であるとは、構成物たる国家から自由に、それを批判する権利をもつということである。
そこでは国民はたとえば、戦争犯罪など、カント的にいえば国家の非人倫的性格や行為を糺断する権利をもつ。
また国家に対する革命権・抵抗権をもつというのも、近代法、近代憲法の基本原則である。
これらの糺断、抵抗、革命などの権限の根本には、国家に対する諸個人の優越、国家に対する倫理的糺断の精神的自由がある。
それ故にこそ、その表現の自由、言論の自由が主権者の権利の基礎にすわるのであって、その自由の範囲はきわめて大きい。

 国家というものが抽象物であるからこそ、それに対する糺断、批判、罵倒は、表現・言論の自由となるのである。
こうして、「日本死ね」という表現は表現の自由の一部を構成する。最低の人間的常識さえもたない国家は社会的に存在する意味はないという糺断である。
近代法原則の下では、それが表現の自由であることは認めなければならない。「抽象物を中傷されたということで傷つくのは傷ついた側が間違い」というのはそういうことである。

(以下略)

http://blogos.com/article/166738/

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