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【梅田】梅田北再開発地区から少なくとも200体以上分の人骨が見つかる なお事件性はない模様

1 :名無しさん@涙目です。:NG NG ?PLT(15610).net

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埋めた200体 盆行事「七墓巡り」舞台 うめきた調査、多様な埋葬
http://www.msn.com/ja-jp/news/national/大阪うめきた梅田墓に「大坂七墓」物証の人骨200体/ar-AApTYKY

 JR大阪駅北側の再開発区域「うめきた」(大阪市北区)に
江戸〜明治時代にかけてあった「梅田墓(ばか)」の発掘調査で、
200体以上の埋葬人骨が見つかった。梅田墓は、江戸期に庶民の間で
流行した盆行事「大坂七墓巡り」の1カ所に数えられ、近松門左衛門の
「曽根崎心中」や井原西鶴の「好色二代男」にも登場するが、面影を
伝えるものは残っておらず、実態はよくわかっていない。過去の工事で
墓石などが出土した例はあるが、学術的な発掘調査で墓の一端が
明らかになるのは初めてで、当時の大阪の都市の様相や
葬送文化を知る上で貴重な発見だ。

 うめきた2期区域の再開発事業に伴い、今年2〜6月、大阪市教委の指導で
大阪文化財研究所が明治期の地図から墓域と推定される
約3000平方メートルの一画を含む、約700平方メートルを発掘調査した。

 調査では、きれいな盛り土の層に整然と並ぶ棺桶(かんおけ)に
入った状態で土葬された人骨が見つかった。一方、火葬されて
骨つぼごと穴に投げ込まれたような状態で見つかったものや、
骨つぼに入れられず、同じ場所に何層にも重なって埋葬された痕跡も
確認されるなど、多様な埋葬形態が明らかになった。棺桶に納められた
人骨の周囲からは、とっくりのミニチュアや六文銭などの副葬品も見つかった。

 梅田墓は江戸初期、天満周辺に点在していた墓の一部を旧曽根崎村に集め
(現在の大阪駅前第1ビル周辺と推定)、都市化に伴って1680年代に
調査地付近に移転したと伝わり、1900年代初めごろまで機能していたとみられる。
(続きは下の方)

129 :名無しさん@涙目です。:2017/08/16(水) 20:47:55.25 ID:oNk8rl4z0.net
朝鮮人虐殺の証拠とか言い出すなw

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